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骨董品買取項目

まんがく屋では中国の骨董品をはじめ日本の骨董品まで販売・買取りいたします。置物、仏像、壺、絵画など骨董品、美術品なんでも買取・販売しております。

 

骨董品買取実績

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香盒
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コラム 中国骨董の歴史と起源について

多くの人が骨董品と言うと日本国内の骨董美術品の数々を思い浮かべますが、日本の美術や芸術の歴史はその起源を多くが中国由来とする物が多く、中国骨董の歴史をさかのぼる事でより日本の骨董品に対する知識や理解度を深める事が出来ます。今回は、「中国骨董の歴史と起源について」お話をさせていただきます。
そもそも、中国骨董である中国の美術品の始まりは今からおよそ6千年前に誕生した黄河文明や長江文明と呼ばれる「中国文明」にその起源を求める事が出来ます。
今から6000年前の当時は、中国の人々は穀物を育てる農耕と米を育てる稲作を中心とした生活を送っていましたが、やがて「邑(むら)」と呼ばれる集落が自然発生的に誕生し、それらの邑から強い力を持つ人が出始めます。この邑から出てきた強い力を持つ人物が実力者として人々の上に台頭するようになり、中国で最初の王朝である「殷」が生まれました。
中国最初の王朝である殷においては、祭政一致という「宗教(祭祀)と政治が一致した神政政治」を行った為、殷の王が祭祀の時に使用する甲骨文字を書く為の亀の甲羅(亀甲)や獣の骨、そして青銅から作られた青銅器を生産していました。これが、中国美術の始まりとされています。
殷王朝の当時、祭祀の為に作られた数々の美術品は当時存在していた動物や空想上の怪物や動物などが描かれており、特に青銅器は高い技術を生産の際に必要とした為重宝され、美術品としての価値が高まってゆきました。
中国骨董の代表格として知られる青銅器の起源はこの時代までさかのぼる事が出来、また中国骨董の起源自体も当時の殷王朝にまでさかのぼる事が明らかになっています。その後、古代から中国を支配し続けてきた漢民族により、中国国内では中国美術が独自の発展を遂げる事となります。
しかし、広大な国土を持つ中国の歴史においては、現在も数多くの民族が暮らしている事からも明らかなように、かつてモンゴルやその他の民族によって中国全土が支配された時代もありました。
特に「元」として有名なチンギスハンが建てた元王朝は中国の歴史上では「他民族による征服王朝」として分類されていますが、チンギスハンの元、そして同じくモンゴル民族であるヌルハチが建てた清王朝は中国国内のみで発展してきた中国美術に大きな影響を与え、書画や絵画、磁器や陶器、陶磁器などにおける独自の中国文化を生み出すきっかけとなりました。
そして現在、数々の民族の歴史によって発展した中国美術は価値のある中国骨董として多くの人々からの関心を集め続けています。

買取について

1点からでも買取可能です。また身内の方の遺品などで大量にあったり、どれぐらいの価値のものなのかわからない場合でも、遠慮なく無料出張査定にご相談・ご連絡ください。

コラム 日本の歴史における骨董品の役割と機能について

中国や朝鮮から日本に伝えられた建築美術や美術品の数々は、室町時代より前の時においては「骨董品として美術品を愛でながら楽しむ」という概念が希薄な時代でした。現在まで続いている「骨董を美術品として鑑賞しながら楽しむ」という文化が生まれたのは室町時代になってからの事です。
室町時代には足利家を将軍とする人々によって、代々骨董品は「中国から伝来した仏教である禅宗の文化に触れる事が出来る品物」として珍重され、禅宗文化に憧憬の念を抱いていた足利家によって日本国内にさまざまな美術品や骨董品が当時の中国である明との間で繰り広げられた日中貿易によってもたらされた時代でもありました。室町時代から時代が進み南北朝時代を経て戦国時代から安土桃山時代までにかけては、織田信長が特に骨董品を始めとした美術品の数々に興味を抱き、名物とされる骨董品の多くを収集した事でも知られています。
織田信長は永禄の11年に京都に赴き上洛した際、堺の商人から名器の茶器を献上された事をきっかけにして骨董品を収集し始めたと言われています。また、織田信長は日本国内の美術品や骨董品のみならず中国の美術品などにも目を向け、中国から伝来した茶器を始めとする美術品や骨董品を数多く自身の収集品として所蔵していました。
当時の織田信長が買い求めた美術品や骨董品の多さに対して人々はそのあまりの数の多さに「名物狩り」とあだ名するほど、織田信長の美術品および骨董品に対する関心は高かったのです。名器狩りと揶揄されるほど多数の美術品や骨董品を集めていた織田信長でしたが、信長はただ単に美術品や骨董品を集めていたのではなく、実際に美術品や骨董品を利用して自ら茶会を開き、高価な茶道具類を自身に仕えていた各地の戦国武将に対して戦の褒章として与えていました。
高価な茶器を織田信長から与えられた武将は感激し、信長配下の武将の間では「織田信長公の茶会に招かれる事」が「一国一城の主として織田信長に認められる事」という認識が広まるようになってゆきました。
織田信長が配下の武将に褒章として与えた茶器の文化はその後家臣であった豊臣秀吉にも伝わり、秀吉も茶道や茶会を愛するようになりました。そして豊臣秀吉も織田信長と同様に高価な茶器や「ルソンの壷」と呼ばれるフィリピン伝来の壷を目の飛び出るような価格で買い求め、多額のお金を日本国内や海外の骨董品や美術品の収集に費やした事でも知られています。